「大切な人は傍にいる」渡邊宗禅和尚の法話

私たちは、愛する大切な人との死別を避けることはできません。

それは仕方がないことだと分ってはいても、二度と会えないと思うと悲しみはつのるばかりです。

亡くなった人たちは、本当にいなくなってしまったのでしょうか。

私たちは普段、身体こそが自分の全てだと思って生きていますが、肉体のみで人間が活動することはできません。そこには必ず生命が宿っています。そして、生命とは私たちの心として自覚できるものです。

私たちはみんな、心によって生きています。心で悲しいと思うから目から涙があふれ、心で嬉しいと思うから微笑みがこぼれます。心で何かをしたいと思うからこそ、私たちは自分の身体を使って、毎日様々なことをしながら、この世界で生きているのです。

もし、ある時死んでしまったら、今までその身体を使ってこの世界で自己を表現していた生命、そして心はいったい何処へ行ってしまうのでしょうか。

生命そのものに私たちが思っているような死はありません。

私たちが「死んだ」と言っているのは身体だけで、身体を使って生きていた目には見えない霊的な生命は、死後も何らかのかたちで必ず生きています。

私たちの身体の目ではその姿が見えないだけ、身体の耳ではその声が聞こえないだけなのです。

一休宗純禅師は、こんな歌を詠まれました。

「今死んだ、どこへもゆかぬ、ここにおる。尋ねはするな、ものは言わぬぞ」

大切な人との別れの後に、心からそう信じることができるかが、私たちに問われています。

すぐ傍にいても、目には見えないし会話もできない、触れることもできません。でも、そういう霊的な姿となっただけで、大切な人はちゃんとそこにいるかもしれません。

フランスの作家、サン・テグジュペリの「星の王子さま」という不思議な物語を、皆さんもご存じのことでしょう。

その中で、王子さまと友達になったキツネが最後の別れの時に、「秘密の贈り物をあげるよ」と告げて、王子さまにこんな言葉を贈ります。

「心で見なくちゃ、ものごとは見えないってことさ。肝心なことは目に見えないんだよ」

もし、あなたの心が「きっとそうなんだ」とつぶやいたなら、心の目で見て、心の耳で聞いてみてください。

そして、あなたの大切な人に語りかけてみましょう。

その時、大切な人はあなたの傍にそっと寄り添い、心を通してきっと何かを伝えてくれるでしょう。

あなたの大切な人のもとに、あなたの心もきっとあります。

「死は終わりではない」渡邊宗禅和尚の法話

私たちは普段、身体こそが自分のすべてだと思っているかもしれませんが、肉体だけで人間が活動するのは不可能なことです。私たちの身体に指令を出して機能させている何かしらの見えない力が必ずあるはずです。

身体に「生命という力」が宿っているからこそ、私たちは呼吸をし、心臓を動かし、二本の足で立って歩く、そんな当たり前のことが始めて可能なのです。

ダライ・ラマ14世は、こう述べておられます。

「私たちが死と呼んでいるのは、古くなった着物を脱ぎ棄てるようなものです」

私たちには寿命があります。けれどもそれは、あくまでも肉体の寿命に限ってのことです。自分の肉体がもう使えなくなってしまった時、それを私たちは「死」と呼んでいるのです。

人間としての根本、生命の本質は、物質的なものではなく霊的なものです。

つまり死ぬのは肉体だけで、目には見えない霊的な生命としての自分は決して死ぬことはないのです。

肉体と霊的な生命が一体となって、物質的なこの地上世界で生活を送る私たち人間には、それを実感として理解することは難しいでしょう。

もし、あるとき身体がもう使えなくなってしまったら、つまり死んでしまったなら、今までその身体を使って自己を表現していた生命は何処へ行ってしまうのでしょうか。

身体を使い、地上世界で様々な経験を積み重ねてきた自己は、次なる段階へ転じてゆくことになります。その自己とは、一度だけの人生に限定された存在ではなく、いくつもの転生の経験を通して変化し、成長してゆく霊的な自己です。本当の自分とは、永遠に生き続ける生命そのものなのです。

あらゆるすべての生命の営みは、過去から現在、そして未来へ受け継がれていきます。原因が結果を生み、その結果が原因となり、とどまることなく生生流転してゆくのです。

私たちは、「自ら蒔いたものを、自ら刈り取る」という摂理から決して離れることはできません。今の自分のすべては、これまでに自分自身が心で思い、身体を使い行ってきた結果が実を結んだものです。そして現在も、常に何かしらの種を蒔き続けているのです。

人間には、自由な意思があります。何をしようと自由です。けれども、自分が思い、行うことが、やがて必ず何らかの「報い」としての結果となって顕われ、自己を形成していくということをよく理解しなければなりません。

私たちの人格、個性は死後も何らかの形で存在し、進化を続けています。

それは、人間が生まれた時すでに個性を持っていて、成長と共に人格が磨かれていく様子を考えるだけでもごく自然に理解できるはずです。

ひとつの個性を持った自己が、この世界に肉体を授かり生まれて来たことには必ず理由があります。それは、その人生の体験によって、自己がさらなる成長を遂げるためです。

一度の転生とは、生命の長い旅路のかけがえのないひと時なのです。苦しみや悲しみ、失敗やにがい過ちを繰り返しながら、そのことから何かを学び、自らの生命に貴重な経験として刻み込んでゆくのです。

ゴータマ・ブッダが肉体を離れ地上世界を去る時に語った最後の言葉が伝えられています。

「あらゆるすべては移ろいゆくもの。怠ることなく励みつづけなさい」

この言葉こそ、私たちの生命の核心とその目的を伝えるものです。